ドストエフスキーと正月

新年あけましておめでとうございます。

 

コロナだいぶ落ち着いてきたので、一年ぶりに実家に帰省した。

帰省する日は実家に寄る前に、一人で神社に行くことにしている。

実家の近所の神社はあまり来客が無く閑散としている。

10円玉投げ、手を叩き合わせ、願いごとをする。

僕は特定の宗教などへの信仰はないが、清々しい気持ちになる。

 

昨年コロナの影響であまりが外出ができずに、家にいることが多かったのでチャンスだと思い、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読破した。

特に印象に残っているのが主人公でキリスト教の修行僧アリョーシャと、無神論者でアリョーシャの兄のイワンが議論をする「大審問官」の章だ。

神を信仰しても罪のない子供たちが虐待され苦しめられることははなくならないと、アリョーシャの信仰を揺さぶるイワン。

苦しめられた子ども達は天国で幸せになれたのか。

また神の信仰することで、過酷な現実をやり過ごす心の救いになるのだろうか。

どちらも天国を確かめることはできないので、否定も肯定もできない。

イワンのように天国行きの切符を突き返したい衝動にかられるが、救う方法もなく苦しみ続けている子供たちもいる現実が、天国への切符を握りしめさせる。

人は現実とその現実に基づいたファンタジーに常に引き裂かれている存在なのではないかと感じる。

神社で手を合わせている時、僕の中の清々しい気持ちはどこからくるのだろう。特定の宗教や神を信じていなくても、人は生活の中で何かを「信仰」しているのではないか。

 

実家に帰ると、3歳の姪っ子がシルバニアファミリーの人形で黙々と遊んでいた。クリスマスでサンタさんにもらったらしい。姪っ子もいつか人形から離れて、現実世界の理不尽さと向き合う日が来るだろう。でも今は幸せなファンタジーの中で遊んでいてほしい。